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お釈迦様の教え
仏陀の御教え
♠自らを灯火(ともしび)とし自らをよりどころとせよ
♠教えのかなめは心を修めることにある 心の主となれ
♠教えのもとに相和し、相敬え
♠世は無常である 人の世の真実の姿に目覚めよ
♠わたしの説き遺した法がおまえたちの師である
♠四つの聖(とうと)い真理を知り 八つの正しい道を修めよ
♠智慧の灯火は無知の闇を滅ぼす
♠すべては縁によって生まれ 縁によって滅びる
♠身も心もすべて無常 実体はない
♠執着があるから苦しみ悩みが生まれる
♠自らを灯火(ともしび)とし自らをよりどころとせよ

釈尊はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれた。

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。

わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我《はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。

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♠教えのかなめは心を修めることにある 心の主となれ

弟子たちよ、これまでおまえたちのために説いたわたしの教えは常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。もし教えのとおりに行うなら常に幸いに満たされるであろう。

教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。

もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主となれ。

心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい

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♠教えのもとに相和し、相敬え

弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。

ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実を取るがよい。

弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。

だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。また、この教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。

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♠世は無常である 人の世の真実の姿に目覚めよ

弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。

いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。

煩悩の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。

煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。

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♠わたしの説き遺した法がおまえたちの師である

弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。

仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。

わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。

弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。わたしにはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。

弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃に入るであろう。これがわたしの最後の教誡である。

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♠四つの聖(とうと)い真理を知り 八つの正しい道を修めよ

この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。怨みあるものと会わなければならないことも、愛するものと別れなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。まことに、執着を離れない人生はすべて苦しみである。これを苦しみの真理〔苦諦〕という。

この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。その煩悩をつきつめていけば、生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死をさえ願うようにもなる。これを苦しみの原因〔集諦〕という。

この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理〔滅諦〕という。

この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道)を修めなければならない。八つの正しい道というのは、正しい見解、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。これらの八つは欲望を滅ぼすための正しい道の真理〔道諦〕といわれる。

これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者はだれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ到達し得る。さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。

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♠智慧の灯火は無知の闇を滅ぼす

道を行うものは、例えば、灯火をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。闇はたちまち去り、明るさに満たされる。

道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧の灯火を得て、無知の闇は滅びる。

仏は単にこの四つの真理を示すことによって人びとを導くのである。教えを正しく身に受けるものは、この四つの聖い真理によって、はかないこの世において、まことのさとりを開き、この世の人びとの守りとなり、頼りとなる。

それは、この四つの聖い真理が明らかになれば、あらゆる煩悩のもとである無明が滅びるからである。

仏の弟子たちはこの四つの聖い真理によって、あらゆる教えに達し、すべての道理を知る智慧と功徳とをそなえ、どんな人びとに向かっても、自在に教えを説くことができる。

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♠すべては縁によって生まれ 縁によって滅びる

人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。

雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。

この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。

だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。

網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあってできている。

一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。

網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っている。

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♠身も心もすべて無常 実体はない

身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。

もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。

この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。

無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我とかわがものとかという観念を離れたものである。

智慧のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

流れる水のように、また灯火のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心とに対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。

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♠執着があるから苦しみ悩みが生まれる

それでは、人びとの憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。つまりそれは、人に執着があるからである。

富に執着し、吊誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。

初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。

しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。

さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明と貪愛とが見いだされる。

無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いことである。貪愛とは、得ることのできないものを貪って、執着し愛着することである。

もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛とのはたらきである。もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この無明と貪愛とのはたらきである。

すべての人びとは、常によこしまな思いを起して、愚かさのために正しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。

業を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。

だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、この心である。

迷いのこの世は、ただこの心から現われた心の影にほかならず、さとりの世界もまた、この心から現われる。

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仏教伝道協会刊『仏教聖典』より。
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