お釈迦様の教え | ||
人間の煩悩 ♠煩悩の根本 無明と愛欲 ♠貪りの火 瞋りの火 愚かさの火 ♠人間の欲には はてしがない ♠十悪 煩悩の泥は深い ♠煩悩のきずなから逃れる五つの方法 ♠五欲は悪魔のしかけたわなである |
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♠煩悩の根本 無明と愛欲 |
一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である。 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明、二つには愛欲となる。 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そしてこの二つこそ、すべての煩悩の源なのである。 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。 この無明と愛欲とをもとにして、これから貪り、瞋り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。 このページのTopへ |
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♠貪りの火 瞋りの火 愚かさの火 |
貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。 この貪りと瞋りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。 まことに、この世は、さまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまの火によって炎炎と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥れる。 このページのTopへ |
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♠人間の欲には はてしがない |
人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きがとまらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。 人はその欲を満足させようとするけれども、上満がつのっていらだつだけである。 人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。 人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺しあう。 また人は、欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。 また、欲のために、身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入って、さまざまな苦しみを受ける。 このページのTopへ |
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♠十悪 煩悩の泥は深い |
外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。 心に貪りと瞋りと愚かさがあるときは、口には偽りとむだ口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。 人の貪りも、愛欲も恐れも瞋りも、愚かさからくるし、人の上幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。 このページのTopへ |
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♠煩悩のきずなから逃れる五つの方法 |
人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。 見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。 第四には、何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。 第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。 このページのTopへ |
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♠五欲は悪魔のしかけたわなである |
眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。 多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕らえられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。 このページのTopへ |
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仏教伝道協会刊『仏教聖典』より | ||
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