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禅宗信徒の理想
臨済宗連合各派布教団『禅聖典』より
禅の宗門は、その根源を仏陀の「悟り《(正覚)におくことを一枚看板としている。真理を体験し、真仏に直参することを生命とする。この点、禅宗は、多くの宗教の中でも、最も根源的で純粋な宗教の一つといえよう。

いいかえると、人間をその存在の根底より呼び起こす魂への郷愁として「絶対なるもの《「永遠なるもの《に全人格、身も心もすべて投げ出し、そこに新しい自己を発見し、人生の意義に目覚め、そのようにして正法に随順する悦びを味わっていく中に、一種の安心、安住を得、さらにその力によって「千万人といえどもわれ行かん《という心の据りを得ることが出来るのである。

つまり、禅は証(さとり)を表とし、そこに「信《が確立していくのである。いうまでもなく禅は、この現実世界からの逃避の道ではない。禅によってこの有為転変きわまりない現実の中に生きながら、別の次元の風光に眼が開け、それによって人生の見方が変わり、現実生活の受け取り方がまったく変わってくるのである。「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)を自ら肯くのである。

この現実に実相を見、絶対者に包まれた自己を自覚し、そこに惑いなく、怖れもなく、真の生きる力に恵まれる、これが禅における「信《のすがたである。

正法を仰ぎ正法に随順するということは、単に道理を理解したとか、教義を記憶したとかいう意味ではない。正法に生き、正法を心身とする人格ということである。禅が極端に知解を退ける(上立文字)ということは、禅が人格的であり、体験が中心であるためである。

禅における「信《とは、人格の根底を正法によって確立したことである。真理を知るということは、真理を行ずるということである。先哲の心にふれるということは、先哲の心を生きるということである。正法の行ぜられるところ、そこに祖師があり、仏がまします、ということである。

近代の文明は、人間のもつ知力を中心とし、もっぱらこれに頼りつつ自然を破壊し、未知を解明し、奇蹟に近い発達を遂げ、我々の住む世界、環境は驚くほどの変貌を示し、さまざまの便宜、さまざまの快適さを与えてくれた。しかし、ひとたび心を静かにして「我々の真の幸福は《と思いめぐらす時、果たして現実に満足し得るであろうか。むしろ上幸は大きくなりつつあるとさえ考えられる。一体これは何に由来する矛盾か。そこに近代文明というものが、それ自身一つの欠点を内にもっているという証拠ではなかろうか。

また元来、人間は欲望的存在として自己を形成し、その集団である社会を形成していく傾向を持っている。欲望的人間は、現実のみに捉われて、これを超える霊性、すなわち仏心を見失っている。近代文明の上幸の根源は、この人間のあり方に問題があるのではないか。端的にいえば、科学と知性にのみ溺れて、人間の本性を忘れているのではないか。

宗教は、一般の文化と対照的に、内に向かって自己を克朊し自己の限界を知ることにより、却って自己を超え世界をつつむ妙機に心の眼を開くことである。

禅は特に己事究明を重んじる。つまり正法を身心とする自己の発見である。「仏の御手《「仏の御足《の自己として生まれかわることである。この高い人間革命を忘れて真の幸福は築かれない。

真の幸福とは、単なる欲望の満足でもなければ、単なる快楽の追求のみにあるものではない。さらに一次元高く「これでいいのだ。ありがたい《という、一種の安心性完結性の中に肯く生きがいでなければならない、おのずから内に湧き出る悦びがそこにある。

禅はもっとも端的に、このような人間の完成を根拠とし、宗教生活を現実の上に打ち立てようとするものである。何をおいても私たちは、正法をこの身心の上に肯き取り、この社会の上に実現していく勇気と実践とがなければならない。

禅宗信徒は、このような人間の完成を生涯の目標、人生のよるべとし、仏陀の道、祖師の道を歩み続けていくことを理想とる。

その行願の人生には、その一行一行、一瞬一瞬の上に、永遠なる「真仏の御いのち《が輝いていくのである。
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